持ちつ持たれつ

こうほね 寒い寒いといっても、もうそこはかとなく春の気が満ち、雪の下で出番を待って堪(た)えていた草花がいっせいに春を謳歌(おうか)するのも間近である。 芝生もいつしか緑めいてきた。
芝生にはどういうわけか、ネジバナやカタバミなどの他の草が混じっているものである。芝生の中に生えた他の草を一本一本ていねいに抜き取ってきれいな芝生にしようとしたところ、作業を終えて数日たったら、芝生はたちまち虫害で全滅してしまった。生態系とはそうしたもので、混じりものがあってこそ安定するのだ……という話を何かで読んだ記憶がある。
なるほどそういうものか、と考えさせられる話である。しかし信心の世界では少しの混じりものも許されない。

虫害といえば、二十四節気の一つに啓蟄(けいちつ)がある。陰暦2月の節、雨水(うすい)の後15日のことで、この頃、土中に冬眠していた蟻、地虫、蛇等が穴から出てくることを意味するのである。
これら虫たちにもレーゾンテール(生存理由)はあるのであるから、芝生を食べて枯らしたからといって、どちらに味方するわけにもいかないのが本来の仏教的なものの見方であろうが、人情としてはどうしても虫のほうが分が悪いようである。しかし小乗仏教では、蚊やゴキブリといえども殺せば殺生戒を犯すことになると説くのである。

ところが、殺しても何のおとがめのない虫がいる。
腹の虫である。この虫はむしろ、殺すほうが世の中のためにはよいのである。
「殺しても罪にはならぬ腹の虫」。もっと有害な虫が「獅子身中の虫」である。
大聖人様は、
「獅子身中の虫の自ら獅子を食らふが如し」(御書204頁)
と仰せである。啓蟄ならずとも、つい春の陽気に誘われて獅子の虫が己(おの)が身中に出てこないように、常に用心が肝要である。

先ほどの芝生の話に似た話が「百年目」という落語に出てくる。
五天竺(ごてんじく)のうちの南天竺に栴檀(せんだん)という大樹があり、その下に南緑草という汚い草が生えていた。ある人が、こんな立派な樹の下に汚い草があってはみっともないというわけで南緑草を取ったら、栴檀も枯れたというのである。
枯れた南緑草が、栴檀にとって何よりの肥料になっていたのである。また南緑草にとっても、栴檀から落ちる露が肥料になっていたわけで、両者はどちらにもなくてはならない「持ちつ持たれつ」の関係だったという話。
そこで栴檀の「だん」と南緑草の「なん」をとって「旦那(だんな)」、すなわち「施(ほどこ)しをする者」という意味になったとか。真偽のほどは知らないが「持ちつ持たれつ」で、在家(檀家)は財施(ざいせ)をし、出家(檀那寺)は法施をするものである。


大乗山 持経寺住職  丸岡雄道・著『麻畝の性 巻頭言  第一聚』より(禁無断複製転載)
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