我々の心には本来、無明(むみょう)という煩悩(ぼんのう)があり、これによって常に種々の迷いが生じている。故に、我々の心は、磨かない鏡のようなもので、常に曇っている。
しかし、鏡を磨けば煌々(こうこう)とした明鏡となるように、曇りが晴れれば真実の法を悟った心となる。故に、迷いの心を持つ我々は、常にこれを正しく磨かねばならない。その磨く方法は、ただ一つしかない。
それは、ただ南無妙法蓮華経と正境(しょうきょう)の御本尊に向かい唱え奉ることである。
(総本山第六十七世日顕上人猊下御教示『すべては唱題から』より 7ページ)
令和6年11月17日(日)午後2時より、持経寺本堂において当山「宗祖日蓮大聖人・御会式(おえしき)御正當会(ごしょうとうえ)」が厳粛に奉修されました。
御会式とは、末法の御本仏・日蓮大聖人が弘安5年(1282年)年10月13日、武州池上(現在の東京都大田区)の右衛門太夫宗仲の館において御入滅あそばされ、滅・不滅、三世常住(さんぜじょうじゅう)の相を示されたことをお祝いする法要です。
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【令和4年から】★成人式
【令和3年】★大乗山持経寺 座替り式 並 第三代住職入院式(11月26日)★お餅つき(12月19日)【令和4年】★御会式(10月23日)★お餅つき(12月18日)【令和5年】★御会式(10月15日)★宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年慶祝記念 支部総登山(4月・9月・11月)★お餅つき(12月17日)【令和6年】★御会式(11月17日)
■お経日(1日) ■広布唱題会(3日) ■御報恩御講(10日) ■目師会(15日) ■宗祖日蓮大聖人 御会式(17日) ■第3回 持経寺支部総登山(24日) ■ガーナ・法華寺様 交流座談会(27日)
令和6年11月27日、ガーナ・法華寺御住職、高木法本御尊師および7名の法華寺御信徒の皆さんが、総本山参詣ののち持経寺に立ち寄られ、持経寺法華講有志との交流座談会が開催されました。
午後5時より夕勤行を共にし、そののち和やかに交流座談会が開催され、お互いにお聞きしたいことを質問し合い、プレゼント交換も行われました。そして最後に全員で記念撮影をし、ガーナの皆さんとの貴重なひとときをいただくことができました。
令和6年11月24日、天野御住職の御引率のもと、『令和6年 第3回持経寺支部総登山』が挙行されました。
当日は穏やかな小春日和に恵まれた中、午前9時40分より広布坊において全体会が行われ、天野御住職より御指導をいただきました。
そののち午前11時30分より御開扉を賜り、終了後広布坊にて昼食をいただきました。
そして今回は、本山妙蓮寺御住職・漆畑日実御尊能化の格別の御高配を賜り、本山妙蓮寺に参詣させていただきました。漆畑御尊能化には私どもを暖かくお迎えくださり、本堂にて妙蓮寺の縁由等について種々お話を拝聴いたしました。そして参詣者全員に記念として、御法主日如上人猊下御染筆による妙蓮寺開創七百年記念の色紙を頂戴し、最後に漆畑御尊能化とご一緒に皆で記念撮影をさせていただき、本年最後の支部総登山は大歓喜のうちに一切を無事に終了いたしました。
令和6年11月17日(日)午後2時より、持経寺本堂において当山「宗祖日蓮大聖人・御会式(おえしき)御正當会(ごしょうとうえ)」が厳粛に奉修されました。
御会式とは、末法の御本仏・日蓮大聖人が弘安5年(1282年)年10月13日、武州池上(現在の東京都大田区)の右衛門太夫宗仲の館において御入滅あそばされ、滅・不滅、三世常住(さんぜじょうじゅう)の相を示されたことをお祝いする法要です。
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お弟子の日尊師・日郷師とともに京へ天奏に向かわれる日目上人(宮沢慈悳師拝写)
令和6年11月15日午後1時より、目師会(もくしえ)が持経寺本堂において奉修されました。
第三祖日目上人は、日蓮大聖人に御入滅の日まで常随給仕し、日蓮大聖人や日興上人に代って天皇や将軍に国家諌暁(こっかかんぎょう)の申状(もうしじょう)を奏上すること実に四十二度。その御高徳を拝し御報恩のために奉修されるのが目師会です。
法要は献膳・読経・唱題と如法に厳修され、御法話にあたり天野御住職より『日興跡条々事』の全文を拝読申し上げ、日目上人の御出自から日興上人との出会い、身延における日蓮大聖人への常随給仕について、また大石寺開創の翌十三日に日興上人より血脈内付の証として授与された譲座(じょうざ)御本尊(御座替御本尊/おざがわりごほんぞん)と『日興跡条々事』を賜っての御相承等々その御事跡について縷々述べられたのち、「生涯にわたって国家諫暁あそばされた日目上人様の御功績を偲び御報恩謝徳申し上げ、私たちはそのお姿の一分でも学び次の代に渡し、そして折伏していくことが私たちの使命である。」等との御指導をいただきました。
そして法要終了後、目師会の別称である「かぶ御講」にちなんで、総本山と同様にお寺様がかぶのお味噌汁とおにぎり、お漬物等をご用意くださり、参詣者みんなで美味しく頂戴いたしました。
『日興跡条々事(にっこうあとじょうじょうのこと)』
元弘2年11月10日
一、本門寺建立の時、新田卿阿闍梨(にいだきょうあじゃり)日目を座主(ざす)と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子(ちゃくし)分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌(りょうしょう)すべし。
一、日興が身に宛(あ)て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸(か)け奉るべし。
一、大石寺は御堂(みどう)と云(い)ひ墓所(むしょ)と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。
右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るも敢(あ)へて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で甲州身延山御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依って此(か)くの如く書き置く所なり。仍って後の為(ため)証状件(くだん)の如し。
十一月十日
日興花押
(御書1883頁)
『日目上人申状(にちもくしょうにんもうしじょう)』
日蓮聖人の弟子日目、誠惶誠恐(せいこうせいきょう)謹んで言(もう)す。
殊(こと)に天恩(てんのん)を蒙(こうむ)り、且(か)つは一代説教の前後に任せ、且つは三時弘経の次第に准じて正像所弘(しょうぞうしょぐ)の爾前迹門(にぜんしゃくもん)の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇(あが)められんと請(こ)うの状。
副(そ)え進ず
一巻 立正安国論 先師日蓮聖人文応元年の勘文
一通 先師日興上人申状
一、 三時弘経の次第
右謹んで案内を検(かんが)えたるに、一代の説教は独り釈尊の遺訓なり。取捨(しゅしゃ)宜しく仏意(ぶっち)に任すベし。三時の弘経は則ち如来の告勅(ごうちょく)なり。進退全く人力(にんりき)に非ず。
抑(そもそも)一萬餘宇(いちまんよう)の寺塔を建立して、恒例の講経(こうきょう)陵夷(りょうい)を致さず。
三千餘(さんぜんよ)の社壇(しゃだん)を崇敬(そうぎょう)して、如在の礼奠(らいでん)怠懈(たいげ)せしむることなし。
然(しか)りと雖(いえど)も、顕教密教(けんぎょうみっきょう)の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷(きとう)も験(しるし)なく、自他の反逆(ほんぎゃく)歳(とし)を逐(お)うて強盛(ごうじょう)なり。
神慮(しんりょ)測られず仏意(ぶっち)思い難し。
倩(つらつら)微管を傾け聊(いささ)か経文を披きたるに、仏滅後二千餘年の間、正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三(みつ)あり。
所謂(いわゆる)法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。
之(こ)れを信敬(しんぎょう)せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を鎮(しず)めん。此(こ)の條(じょう)如来の金言分明(きんげんふんみょう)なり。大師の解釈(げしゃく)炳焉(へいえん)たり。
就中(なかんずく)我が朝は是れ神州なり。神は非礼を受けず。
三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を誡(いまし)む。然(しか)れば則ち爾前迹門の謗法を退治せらるれば、仏も慶(よろこ)び、神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え、国も栄えん。
望み請う、殊に天恩を蒙り諸宗の悪法を棄捐(きえん)せられ、一乗妙典(いちじょうみょうでん)を崇敬(そうぎょう)せらるれば、金言しかも愆(あやま)たず、妙法の唱(となえ)閻浮(えんぶ)に絶えず、玉體(ぎょくたい)恙無(つつがの)うして宝祚(ほうそ)の境(さかい)天地(あめつち)と疆(きわ)まり無けん。
日目先師の地望(ちぼう)を遂(と)げんがために、後日の天奏(てんそう)に達せしむ。誠惶誠恐(せいこうせいきょう)謹んで言(もう)す。
元弘三年十一月 日目
令和6年11月10日午後1時より、御報恩御講が持経寺本堂において奉修されました。
法要は献膳・読経・唱題と如法に厳修され、七五三祝いののち令和6年11月度・御報恩御講拝読御書『法華取要抄』を拝読申し上げ、天野御住職より御法話に先立ち「日顕上人様は、仏教において様々な位・差別が設けられているのは、上には上の位があるから怠けずに精進するためであり、さらに上を目指していくことが大事である。それを拒んでしまったらそこで終わりであり、幸せにはなれない。常に上を向いてお題目を唱えて目指していくところに、自分自身の成長があり幸せがあると御指南あそばされていた。」等と述べられ、そののち本文の通解並びに同抄全体の概要、および総本山第二十六世日寛上人様の『法華取要抄文段』等について述べられたのち、「末法において法華経の行者として出現されたのは日蓮大聖人ただお一人であり、命にも及ぶ数々の大難をも乗り越えられ、御本仏の大慈大悲の上から南無妙法蓮華経のお題目を弘め御本尊様を顕わされたことは、法華経の中で証明されている筋目である。そしてその筋目・血脈は大聖人様から日興上人、そして御当代・日如上人猊下に受け継がれているのであり、その大聖人様の御境界・御内証の上から常に折伏の御指南をあそばされている。本年もあと1ヶ月と少し、最後まで〈一年に一人が一人の折伏〉を目指して精進してまいりましょう。」等との御指導をいただきました。
『法華取要抄(ほっけしゅようしょう)』
文永11年5月24日 53歳
諸病(しょびょう)の中には法華経を謗(ぼう)ずるが第一の重病(じゅうびょう)なり。諸薬(しょやく)の中に南無妙法蓮華経は第一の良薬(ろうやく)なり。此(こ)の一閻浮提(いちえんぶだい)は縦広七千由善那八万(じゅうこうしちせんゆぜんなはちまん)の国之(これ)有り。正像(しょうぞう)二千年の間(あいだ)未(いま)だ広宣流布せざる法華経を当世に当たって流布せしめずんば釈尊(しゃくそん)は大妄語(だいもうご)の仏、多宝仏(たほうぶつ)の証明(しょうみょう)は泡沫(ほうまつ)に同じく、十方分身(じっぽうふんじん)の仏の助舌(じょぜつ)も芭蕉(ばしょう)の如(ごと)くならん。
(御書735頁13行目〜16行目)
令和6年11月3日午前9時より、広布唱題会が持経寺本堂において奉修されました。
読経・広布唱題行終了後、天野御住職より御指導に先立ち『四信五品抄』の御文を拝読申し上げ、通解ののち「私たち末法の本未有善の荒凡夫衆生は、大聖人様の根本のお悟り、南無妙法蓮華経の意義というものはたとえ分からなくても、そのお題目には無量の功徳善根がある。私たちは仏様の御指南のままにお題目を唱え、そして仏様の使いとして折伏していくことが大切である」等と述べられ、さらに『四条金吾殿御返事』の御文を引用され、「大聖人様が大御本尊様を顕されたけれども、その御本尊様を弘める人がいなければ何にもならない。それを弘めるのは私たち弟子檀那であり、そうでなければ広宣流布は進まないのである。一人一人が大聖人様からの使命があると自覚して、ともどもに精進してまいりましょう。」等との御指導をいただきました。
『四信五品抄(ししんごほんしょう)』
建治3年4月初旬 56歳
問ふ、其の義を知らざる人唯(ただ)南無妙法蓮華経と唱へて解義(げぎ)の功徳を具するや不(いな)や。答ふ、小児乳を含むに其の味を知らずとも自然(じねん)に身を益す。耆婆(ぎば)が妙薬誰か弁へて之を服せん。水心無けれども火を消し火物を焼く、豈(あに)覚(さとり)あらんや。
(御書1114頁11行目〜)
『四条金吾殿御返事(しじょうきんごどのごへんじ)』
建治2年9月6日 55歳
設(たと)ひ正法を持(たも)てる智者ありとも檀那(だんな)なくんば争(いか)でか弘まるべき。
(御書1041頁)
令和6年11月1日、午前10時より、お経日が持経寺本堂において奉修されました。
法要は読経・唱題、各家塔婆供養・永代供養精霊等の追善回向と如法に厳修され、そののち御法話に先立ち、天野御住職より『種々御振舞御書』を拝読申し上げ、通解並びに対告衆である光日尼および本抄全体の概要等について述べられたのち、「私たちも、日々信心に精進していく中でいろいろなことが起こってくる。しかしどんな障害があっても憶(おく)することなく退くことなく、常に前を向いて折伏をしていかなければならない。何十年と信心してきたとしても、今日から題目を唱えなくなったらそれでおしまいである。今まで地道に折伏を続けてきたとしても、やめてしまったら今後折伏が成就することはない。自行も折伏も法灯相続も決して諦めることなく、生涯にわたって淡々と行じていくことが大切である。」等との御指導をいただきました。
『種々御振舞御書(しゅじゅおふるまいごしょ)』
建治2年 55歳
仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉(かしょう)・阿難(あなん)等、馬鳴(めみょう)・竜樹(りゅうじゅ)等、南岳・天台等、妙楽・伝教等だにもいまだひろめ給(たま)はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目(げんもく)たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提(いちえんぶだい)にひろませ給ふべき瑞相(ずいそう)に日蓮さきがけしたり。わたうども(和党共)二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝(すぐ)れ、天台・伝教にもこへよかし。
(御書1057頁1行目〜)
御法主日如上人猊下御指南
大聖人様御自身が、身軽法重(しんきょうほうじゅう)・死身弘法(ししんぐほう)のお振る舞いをもって折伏を行じ、その範(はん)をお示しあそばされたお姿を拝するとき、我らもまた大聖人様の弟子檀那として、いかなる困難、障害にも遭遇しようとも少しも憶(おく)することなく、また一歩も退(しりぞく)くことなく、決然(けつぜん)として二陣、三陣とそのあとに続き、折伏逆化(ぎゃっけ)の戦いに挑んでいかなければならないのです。
(『大白法』955号 四月度広布唱題会の砌)
■お経日(1日) ■広布唱題会(6日) ■御報恩御講(12・13日)
令和6年10月12日・13日の両日午後1時より、御報恩御講が持経寺本堂において奉修されました。
法要は献膳・読経・唱題と如法に厳修されたのち、御法話にあたり天野御住職より令和6年10月度・御報恩御講拝読御書『妙法比丘尼御返事』を拝読申し上げ、通解並びに同抄全体の概要等について述べられたのち、「私たちの生命には、地獄界から仏界までの十界がみんな平等に具(そな)わっている。したがって御本尊様を拝していても、人間であるからには地獄の苦しみは必ずある。しかし地獄の苦しみの中にあっても、そこにまた仏界の姿、安楽の姿があり、その苦しみにとらわれない。それが南無妙法蓮華経の御本尊様の素晴らしさである。しかしそれを知らない一般の人々は、地獄の中の地獄であり、人間関係の苦しみ、借金苦、病気、身内の問題など様々な苦しみから逃れる術(すべ)も分からず、ただただ苦しいだけである。それが御本尊様を拝している人は、苦しいけれども、御本尊様にお題目を唱えている中で〈絶対に乗り越えられる〉という確信が芽生えてくる。それが地獄界の中の仏界であり、その安楽の境涯に至ることができるのである。私たちは、この御本尊様を拝す功徳を知らない多くの人たちを折伏し、救っていかなければならない。謗法を見ながら放置し折伏をしない人は、仏様の敵(かたき)となり無間地獄に堕ちるとの御教示であるから、しっかり折伏弘教に励んでまいりましょう。」等との御指導をいただきました。
『妙法比丘尼御返事(みょうほうびくにごへんじ)』
弘安元年9月6日 57歳
仏法(ぶっぽう)の中には仏(ほとけ)いまし(誡)めて云(い)はく、法華経のかたきを見て世(よ)をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏(しゃかぶつ)の御敵(おんかたき)、いかなる智人(ちにん)善人(ぜんにん)なりとも必(かなら)ず無間地獄(むけんじごく)に堕(お)つべし。譬(たと)へば父母(ふぼ)を人の殺さんとせんを子の身として父母にしらせず、王をあやま(過)ち奉(たてまつ)らんとする人のあらむを、臣下(しんか)の身として知りながら代(よ)をおそれて申さゞらんがごとしなんど禁(いまし)められて候(そうろう)。
(御書1262頁17行目〜1263頁3行目)
御法主日如上人猊下御指南
我々は邪義邪宗の謗法の害毒によって多くの人が苦しんでいるのを見て、それを黙過せず、一刻も早く大聖人様の正しい教えに導くべく、決然として折伏を行じていくことが、いかに大事であるかを知り、各講中ともいよいよ異体同心・一致団結して、勇猛果敢に折伏を行じていかれますよう心からお願いします。
(『大日蓮』令和6年8月号)
令和6年10月6日午前9時より、広布唱題会が持経寺本堂において奉修されました。
読経・広布唱題行終了後、天野御住職より、「〈一念〉ということは本当に大事であり、御本尊様を信ずる強い一念によってたくさんの困難をも乗り越えていける。広布唱題会は広宣流布を願っての唱題行であり、合わせて自身と、そして縁ある人たちの幸せをご祈念いたしましょう」等と述べられたのち、『椎地四郎殿御書』の御文を拝読申し上げ、「私たちは、過去世からの深い宿縁あってこの持経寺に一同して集っているのであり、講員同士色々あったとしても力を合わせ、皆で一人も漏れることなく最後まで信心を全うし、そしてまた来世も、その功徳によって御本尊様のもとに帰ってくるのである。そのためには、自行のみにとどまっていては自身の狭い考えにとらわれた信心になってしまう。〈自行化他〉を忘れることなく、折伏行に邁進することが大事である」等との御指導をいただきました。
『椎地四郎殿御書(しいちしろうどのごしょ)』
弘安4年4月28日 60歳
法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁(しゅくえん)ふか(深)しとおぼしめすべし。
(御書1555頁6行目〜)
令和6年10月1日、午前10時より、お経日が持経寺本堂において奉修されました。
法要は読経・唱題、各家塔婆供養・永代供養精霊等の追善回向と如法に厳修され、そののち御法話に先立ち、天野御住職より『開目抄』を拝読申し上げ、通解並びに〈人本尊(にんほんぞん)開顕の書〉である本抄全体の概要等について述べられたのち、「大聖人様は身命を賭してこれらの大難をものともせず、御本仏のお立場から、一切衆生救済のため南無妙法蓮華経の本門戒壇の大御本尊様を御図顕あそばされたのである。この御本尊様に題目を唱えていくならば、どのような罪障も消滅し、願いは必ず成就できる。そしてどんな人であっても即身成仏できる。大聖人様の不惜身命のお姿を私たちの規範とし、広宣流布に向かって慈悲の折伏に精進してまいりましょう」等との御指導をいただきました。
『開目抄(かいもくしょう)下』
文永9年2月 51歳
いた(甚)うの大悪人ならざる者、正法を誹謗すれば即時に夢みてひるがへる心生ず。又云はく「枯木石山(こぼくしゃくせん)」等。又云はく「燋種甘雨(しょうしゅかんう)に遇(あ)ふと雖(いえど)も」等。又云はく「明珠淤泥(みょうじゅおでい)」等。又云はく「人の手に創(きず)あるに毒薬を捉(と)るが如し」等。又云はく「大雨空に住せず」等云云。此等(これら)の多くの譬(たと)へあり。詮ずるところ、上品(じょうぼん)の一闡提人(いっせんだいにん)になりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし。例せば、夏(か)の桀(けつ)、殷(いん)の紂(ちゅう)の世には天変なし。重科有って必ず世ほろぶべきゆへか。又守護神此の国をすつるゆへに現罰なきか。謗法の世をば守護神すてゝ去り、諸天まぼ(守)るべからず。かるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし。還って大難に値ふべし。金光明経に云はく「善業を修する者は、日々に衰減す」等云云。悪国悪時これなり。具(つぶさ)には、立正安国論にかんがへたるがごとし。
(御書571頁14行目〜)
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