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真の功徳は正しい信仰にあり

世の中には数え切れないほど多くの宗教があります。しかし果たしてその中において、真実の正しい宗教、本当の功徳というのはどこにあるのでしょうか。
日蓮正宗は、末法の御本仏・日蓮大聖人の教えを700有余年、現在まで正しく伝える唯一の正統嫡流(せいとうちゃくりゅう)宗派として、真実の正しい本尊とその功徳をもって、すべての人々を崩れることのない幸福に導き、正法(しょうぼう)の興隆による国土の安穏(あんのん)を祈願しています。

功徳とは何でしょう

功徳(くどく)とは、「積功塁徳(しゃっくるいとく)」「功能福徳(くのうふくとく)」の意で、正しい仏道修行という善因を修し、善根(ぜんごん)を積むことによって得る福徳のことをいいます。
中国天台宗の開祖・天台大師(てんだいだいし)は、利益(りやく)と功徳について、
「厳密にいえば、功徳とは自ら積むものであり、利益とは他から与えられるものという違いはあるが、仏道修行による得益の相からいえば、その意義は同一である(法華玄義巻六・取意)」
と言われています。したがって、普通は利益のことを功徳といっても差しつかえはありません。
しかし世間では普通「ご利益」というと、お金が儲(もう)かったり、病気が治ったり、願いごとが叶(かな)うなどの目前の現証だけを考えがちです。
もちろん、このような今世の利益も大事ではあります。病気に苦しむ人はその病を治したいと願い、経済苦に悩む人がそれを打開したいと願うのは当然のことであり、仏法はそうした欲求を否定するものではありませんし、そうした現在の苦しみも必ずその功徳によって開かれていきます。しかしまた、正しい信仰はむやみな欲望を満たすためのものではありません。
仏様は、すべての生命は今世だけのものではなく、過去・現在・未来の三世にわたって永遠不滅なるがゆえに、過去世の罪障(ざいしょう)を消滅し、今世のみならず未来永劫(みらいえいごう)にわたって清浄な幸福境界(きょうがい)を確立することが「真実の利益」であると教えられています。

六根清浄と即身成仏

宗祖・日蓮大聖人は功徳について、
「功徳とは六根清浄(ろっこんしょうじょう)の果報(かほう)なり。(中略)悪を滅するを功と云(い)ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏(そくしんじょうぶつ)なり」(御書1775ページ)
と仰せられています。

●六根清浄
六根とは、眼根(げんこん)・耳根(にこん)・鼻根(びこん)・舌根(ぜっこん)・身根(しんこん)・意根(いこん)の生命の識別作用の器官をいいます。この六根が煩悩(ぼんのう)に覆(おお)われていると、外界の事象(じしょう)を正しく認識できないばかりか、それにともなう行動も誤ったものとなり、苦しみの原因を作ることになるのです。
その六根が清浄になるとは、六根に備わる煩悩(ぼんのう)の汚(けが)れが払い落とされて清らかになり、ものごとを正しく判断できる英知が生まれることです。これを概説すると、
・眼根の功徳/すべての事象が明らかに見え、物事の因果を正確に知ることができる。
・耳根の功徳/あらゆる音声から、実・不実を聞き分けることができる。
・鼻根の功徳/あらゆる臭いを嗅(か)ぎ分け、分別(ふんべつ)を誤ることがなくなる。
・舌根の功徳/勝れた味覚を持ち、さらにその声は深妙(じんみょう)となり、聞く者を喜ばせる。
・身根の功徳/穏(おだ)やかで健全な身体となり、外界の刺激に適合させ、自身を処することができる。
・意根の功徳/心は清らかに、頭脳は明晰(めいせき)となり、智慧が深くなる。
ということになります。
すなわち、六根清浄とは六根にそなわる煩悩の汚れが払い落とされ、物事を正しく判断できる智慧を得ることをいうのです。
日蓮大聖人は、
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮(しょせん)今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」(御書1775ページ)
と仰せられ、末法の法華経である南無妙法蓮華経を信じ唱える者には、必ず六根清浄の功徳がそなわると教示されています。

●即身成仏
私たちの生命には一人の例外もなく、「地獄」「餓鬼(がき)」「畜生(ちくしょう)」「修羅(しゅら)」「人間」「天上」「声聞(しょうもん)」「縁覚(えんがく)」「菩薩(ぼさつ)」「仏」の十種の生命(十界)がそなわっています。
即身成仏(そくしんじょうぶつ)とは、煩悩(ぼんのう)に覆(おお)われた凡夫(ぼんぷ)の身のままで仏になることをいい、自己の生命の奥底(おうてい)にそなわる仏性(仏界)を開き、安心立命(あんじんりゅうみょう)の境界となる最極の功徳をいいます。
この即身成仏は、小乗教で説くような煩悩をすべて滅することでも、また死んだ後にはじめて仏になるということでもありません。生きているこの身このまま、煩悩を持ったままの姿で仏の境界を得るということで、これは日蓮大聖人の仏法を信仰することによってのみ可能となるのです。
日蓮大聖人は、機根(きこん)も低く三毒強盛(さんどくごうじょう)の荒凡夫である末法の衆生に対し、法華経寿量品の文底に秘沈された三大秘法の御本尊を受持信行するところに、煩悩を持ったまま、即身に成仏できる法門を説き示されました。
すなわち、
「正直に方便(ほうべん)を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕(あら)はれ、其(そ)の人の所住の処(ところ)は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり」(御書694ページ)
と仰せられ、大聖人の仏法を信受し、題目を唱える功徳によって、自身の煩悩・業・苦の三道が、清浄にして不動の心(法身)となり、深い智慧と慈愛に満ちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽(解脱)させる働きをもたらすことになると示されたのです。

日蓮大聖人の御本尊と広大無辺の功徳

●本尊とは
本尊とは、信仰の対象となる対境(たいきょう)のことで、日蓮大聖人の仏法においては「根本尊崇(こんぽんそんすう)」「本来尊重(ほんらいぞんじゅう)」「本有尊形(ほんぬそんぎょう)」の三義があります。
本尊はその宗派によってさまざまで、例えば浄土教(浄土宗、浄土真宗など)では阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊とし、真言宗では大日如来や不動明王などが祀(まつ)られます。
本尊に手を合わせ拝むということは、自分の命をその本尊に奉(たてまつ)る意味があり、決して軽々しく考えるべきではありません。誤った、邪(よこしま)な本尊を拝めば、必ずその害毒を身に受けることとなります。自身の一切をお預けする本尊は、正しいものでなければなりません。
中国天台宗第6祖・妙楽(みょうらく)大師は、
「使(たとい)発心(ほっしん)真実ならざる者も正境(しょうきょう=正しい本尊)に縁すれば功徳猶(なお)多し・若(も)し正境に非(あら)ずんば縦(たと)い偽妄(ぎもう)無きも亦(また)種(しゅ=成仏の因)と成らず」
と述べています。すなわち、たとえ仏道への志がしっかりしていない人であっても、正しい本尊に縁すれば功徳は多いが、逆にどんなに高く立派な志をもって真剣に信仰したとしても、その本尊が誤っていればそこに功徳はなく、成仏の因とはならないということです。

●日蓮大聖人の御本尊
末法に出現された御本仏・日蓮大聖人は、久遠本仏(くおんほんぶつ)としての御内証(ごないしょう)を、一幅(いっぷく)の大曼荼羅(だいまんだら)本尊として顕されました。
なかでも弘安2年(1279年)10月12日御図顕(ごずけん)の大曼荼羅は、まさしく究竟(くきょう=究極)中の究竟の御本尊であり、日蓮大聖人が末法に御出現された最大事の目的です。この御本尊を「本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊」と尊称申し上げ、総本山大石寺に700年以上にわたり厳護(げんご)されています。
この大御本尊は、日蓮大聖人が、
「此(こ)の曼茶羅(まんだら)能(よ)く能く信じさせ給ふべし。(中略)日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめ(染め)ながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書685ページ)
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書1773ページ)

と仰せの日蓮大聖人の御一身であり御当体です。すなわち、生きておわします御本仏であるのです。
日蓮正宗僧俗が御下附(ごかふ)賜(たまわ)る御本尊はすべて、宗祖・日蓮大聖人様の仏法を正しく受け継がれている代々の御法主上人猊下(ごほっすしょうにんげいか)によって、この本門戒壇の大御本尊を御書写された御本尊です。

●御本尊の功徳
日蓮大聖人は、
「只(ただ)南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深(じんじん)なり、是(これ)を信受すべし」(御書406ページ)
と仰せられ、総本山大石寺・第26世日寛上人(にちかんしょうにん)は、
「この本尊の功徳、無量無辺(むりょうむへん)にして広大深遠(こうだいじんのん)の妙用(みょうゆう)あり。故に暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則(すなわ)ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段・歴代法主全書5−266ページ)
と御指南されています。祈りは叶い、過去世からの罪障も消滅し、福を招来することができるのです。
日蓮大聖人の御本尊は「輪円具足(りんねんぐそく=円融円満にすべてが具わっている)」とも「功徳聚(くどくじゅ=無量・一切の功徳の集まり)」とも称されます。
日蓮大聖人の教えを正しく信じ、この御本尊に南無妙法蓮華経と唱えるならば、先述のとおりの広大無辺の功徳を享受(きょうじゅ)し、何ものにも崩されることのない自由自在の境界(きょうがい)、生きていくこと自体を楽しむ絶対の幸福感、何ものにも紛動(ふんどう)されることのない強い主体性、悪縁に染まることのない清浄(しょうじょう)な生命をもって、人生のあらゆる苦難を切り開き、未来永劫に崩れることのない真の幸福を得ることができるのです。

【参考図書】
日蓮正宗宗務院発行『日蓮正宗入門』『正しい宗教と信仰』他
(文責在ホームページ編集室)
※禁無断複製転載

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