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お盆は学ぶチャンス

三具足毎年7月15日、地方によっては8月15日に、先祖の供養を行う仏教行事を「お盆」と申しますが、これは古代インドの言葉、サンスクリットの「ウランバナ(Ullambana)」を漢語に音訳した「盂蘭盆(うらぼん)」を略してお盆と言うようになったものです。
原語のウランバナの意味は「逆さに吊されたような激しい苦しみを解く」という意味で、「解倒懸(げとうけん)」と訳されます。

亡き人がこのような苦しみに出会うことのないように、もし出会っているならば、一時も早くそのような苦しみから救ってあげたいとの思いからお盆の行事が始まったと言われますが、亡き人のみならず、生きている私どももこのような苦しみに出会いたくはありません。それならば、どう生きればよいか。お盆は生きている私どもに、生きざまについて、さまざまなことを教えてくれる絶好のチャンスと申せましょう。
それは、どのようなチャンスでしょうか。

宗教や信仰ということについて思いをめぐらすチャンス。日常の生活をふり返ってみるチャンス。生や死ということについて考えるチャンス。つまり、人間として生きていく上での根本に関わることについて学び、考え、実行する大きなチャンスがお盆であるといえるのです。
さあ、あなたは、お盆をどんなチャンスとして受け止めますか。これからお話申し上げるさまざまなチャンスを参考にして、お盆に生きざまの大事を学び、人生の糧(かて)の一分にしていただければ幸いです。

日本人の奇異な宗教感覚

家の宗教は仏教だと知りながら、なにか格好よさに憧(あこが)れるのでしょうか、軽井沢あたりの高原のチャペルで結婚式をあげる若者が多いと聞きました。
不況になると宗教が流行する、といわれる我が国では、宗教法人として登録されている宗教は創価学会や統一教会、あるいはかつてのオウム真理教のような新興宗教も含めておよそ2,000といわれていますが、法人格を持たないものや易や占い、霊感商法まがいの類(たぐい)まで含めると万に近いのではないでしょうか。
それはともかくとして、七・五・三のお祝いといっては神社に詣で、結婚式は教会で、葬式はお寺で……と、まさに宗教何でもありで混在させて違和感を持たない日本人に「あなたの信仰は?」と聞かれて「私は○○教を信仰しています」とに言い切れる人が一体どれくらいいるでしょうか。
「家は仏教だけど、俺的には別に……」
近頃そういう若者が多いといわれていますが、試みにヨーロッパ諸国はいうまでもなくラテンアメリカの人間にそういったらどのような反応を示すでしょうか。

「信仰を持たないということは、魂がないのと同じことである」と固く信じている世界の多数の人々、特にヨーロッパの人々にとって「我が家の宗教はあるが、私個人の宗教はない」という言葉が、どれ程奇異に思われるか、おそらく異星人でも見るような目で見られるであろうことは間違いありません。
そんなところから、日本人のことを「エコノミックアニマル」などと名づけられたのかも知れません。アニマルとは畜生ですから、人間として認めないという、日本人に対する軽蔑的な見方の延長線上で、「個人の信仰を持たないということは魂がないのと同じ」と見ているのですから、お盆を、宗教や信仰について改めて考えるチャンスととらえ、ひいては自分の生きざまを学ぶ絶好のチャンスを無駄にしないで欲しいと思います。

お寺は死んでから来ても遅い

次に、「お寺は、死んだらお世話になるところ」という考え方が、特にお年寄りの方に多いように思われます。実際、お葬式の時は僧侶のお世話にはなりますが、お寺は死んで以降に初めてお世話になる所ではありません。生きていく間に来るところです。死んでから来ても遅いのです。
生きている内にたびたびお寺へ来て、「二度とない人生を悔いなく生きるためにどうすればよいか」「何をよりどころに生きていけばよいか」を学ぶことが大切です。
私どもは毎日毎日、時を刻んで生きているのですが、その「時」という字は日偏に寺と書くでしょう。好むと好まざるに関わらず、毎日お寺へ向かって日を過ごしているのです。

「皆さんはどんな死に方がしたいですか」
という質問をすれば、おそらくほとんどの人が、
「そりゃあ、よい死に方をしたいですね。家族や、知り合いのみんなから惜しまれるような人になって死にたいですよ」
という言葉が返ってくると思います。
それならなおさらのこと、よい死に方をしたければ、よい生き方をしなければなりません。よい生き方をしたければ、お寺にたびたび足を運んで、そのための羅針盤を見つけてください。
羅針盤とは仏様の教えです。つまり、お経をあげお題目を唱え、信心を学ぶ、法話を聞くということです。お経もお題目も生きていく人のために説かれた教えですから、死んでから聞いたのでは遅いのです。

もう一度申し上げます。
お寺は生きている間に足しげく来るところです。何となれば、私どもを常に見守って下さる仏・法・僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)がおわしますところだからです。死んでからでは遅い、生きている人が即身成仏(そくしんじょうぶつ)するための帰命依止(きみょうえし)、信行練磨(しんぎょうれんま)の道場がお寺である、ということを、ご先祖や亡くなった人の追善供養の縁に引かれて、お寺へお詣りして生きている皆様方が改めて学ぶ、すなわち生きざまを学ぶチャンスがお盆なのです。

ご先祖に会えるチャンス

次に「お盆はご先祖に会えるチャンス」ということについて申し上げたいと思います。
「現代人は理屈が先」とよくいわれますが、先祖供養などどいっても先祖とは亡くなった人たちのことであり、自分と同じ時代に生きたわけではなく、直接自分とは関係がないから、先祖を供養する意味がわからない、またたとえ供養しても、先祖が喜んでいるかどうかわからない、確かめようがないのだからムダではないか、などと屁理屈を並べる人がいます。特に若い人たちならごく自然に抱く疑問といってもよいかもしれません。
お説の通り、ご先祖とは亡くなった人々に違いありませんが、今生きている私たちの生命(いのち)の中には、ご先祖が確実に生きておられるのです。このことを確かめるためには、自分の生命の根源を探ってみるとよいのです。

日蓮大聖人様が『出家功徳御書』に、
「我が身は天よりもふらず、地よりも出でず、父母の肉親を分けたる身なり」(御書1372ページ)
と仰せのように、私たちは一人の例外もなく、みんなお父様、お母様から生まれてきました。私たちを生んだお父様、お母様もまた両親から生まれてきました。こうして25代さかのぼって、仮に1世代30年として750年前、すなわち鎌倉時代までさかのぼりますと、何と私一人が生まれてくることに関わりあったご先祖の数は、実に33,554,432人という膨大(ぼうだい)な数になります。その縁(えにし)の糸が一本切れていても今日の私はありません。ですから、自分の生命は自分だけのものだと思うのはとんでもない思い上がりなのです。
私たちは、こんなにも大変な数のご先祖が、今、私たち一人ひとりの生命の中に生きていることを自覚しなければなりません。つまり、この人生、30年や50年70年の私たちの経験だけで生きているのではなくて、大変な数のご先祖の歓びや悲しみや、さまざまの精神的、肉体的経験が、私たち一人ひとりの血の中に流れて、そのお蔭で生かしていただいているのだということを私たちは知らなければなりません。
このことが分かりますと、今、生かされている自分、生命あるわが身の有難さに気づき感謝せずにはおられないはずです。この感謝の心を表現する行いこそが先祖供養なのです。

お尋ねしますが、犬や猫のような動物が親の供養をしたという話をお聞きになったことがありますか。あれほど親子愛の絆(きずな)の強い動物であっても、亡き親の供養はできません。ましてや動物の先祖供養はございません。
つまり亡き人やご先祖の供養ができるのは、万物の霊長といわれる人間だけなのです。
もうお分りでしょう。供養するとご先祖が喜ぶかどうかを確かめてから行う供養なら、やめた方がよいのです。供養はどこまでも、見返りのない清らかな行いなのです。計算ずくの行いであっては供養になりません。それこそムダなことです。
あくまで感謝の心をどう伝えるかという、供養する人の一途(いちず)で一方的な行いでなければ、しない方がよいのです。こういう自分の生命の根源に思いをめぐらし、生かされている自分をご先祖に感謝し、自分の生命の中に生きつづけているご先祖と出会うチャンスがお盆なのです。

他人の死を通して生きざまを学ぶチャンス

私が若い頃、関西のF市という小さな城下町のお寺の住職をしていた頃の話です。
Kさんのお宅で、亡くなったお父さんの新盆のご法事がありました。
お参りの人たちも帰り、静かになったお仏壇の前にKさんと、Kさんの奥さんの二人だけが座っていました。そのときKさんが奥さんに向かって語りかけました。
「いつか君に心から御礼を言おうと思っていたのだ。長年、床に伏していた親父の面倒を本当によく見てくれた。君のおかげで親父は、自分の家の畳の上で死ぬことができたんだ。
本当に長い間有難う。ご苦労さまでした。もっと早く御礼を言うべきだったのに今日になってしまった。新盆の法事を終えて、親父の写真を見ていたら、親父が君に早く御礼を言えって催促しているような気がしてね……」
照れくさそうに、はにかみながら告げるKさんに、奥さんは、
「何を今になって改めて言うのよ。そんなこと当たり前の事をしたまでよ」
と言いながらも、その眼からは大粒の涙がこぼれていました。40年近く経った今も、お盆の季節になると思い出す光景です。
正直言って、奥さんにとってお義父(とう)さんの世話は苦しいことばかりだったでしょう。
お義父さんの老人性痴呆症の症状はかなり重く、その世話は24時間、ひとときも気が抜けない大変なものだったでしょう。奥さんは身も心も疲れきっていたというのが本当のところでしょう。そんな奥さんに、改めて暖かい労(いたわ)りと感謝の言葉がかけられたのですから、大粒の涙もこぼれます。
続けてKさんがこんな事を言いました。
「葬式の日、親父の骨を拾っていてね、悲しくて悲しくて仕方なかったよ。身内の骨を拾うことがあんなに悲しいものとは知らなかった……。さっき、そのことを思い出して考えたんだが、君の骨はオレが拾ってやろうとね。変な言い方かも知れないが、君を幸福にして、君より長生きをして、君を看取(みと)って、君の骨を拾ってから死のうと思ったんだ。身内の骨を拾うという、こんな悲しいことを君一人にさせられないと思ったんだ。いいか、君の骨はオレが拾ってやるからな。そしてオレが死ぬ。変なことを言うと思うだろう。きっとお盆が、死について考えることを教えてくれたんだ。」

私は40年前のお盆の日の、このK夫妻の会話から大変多くの事を学びました。
Kさんのお父様だって、ご先祖だって、もう亡くなった人たちです。死という、人間として絶対避けて通れない大事件を通過した人たちです。でもこの時のKさん夫妻も、私もまだこの世に生きている。だから死について考えるなんてめったにない。けれどもやがては、必ずやって来る死を迎えるのだから、時には死に関わることについて考えてもいいのではないでしょうか。
生き死にのことは、人間の力でどうなることではない。死はいつやってくるか分かりません。それならば家族、知人、その他あらゆる人との出会いを通して、「私の人生悔いのない人生だった。貧しくても、多少身体が弱くても、私の人生、多くの人と出会えてよかった」と言って死ねるよう、生きているうちに幸せになるため、他人の死を通して生きざまを学ぶ。お盆というのはそのための絶好のチャンスではないでしょうか。

いのちについて学ぶチャンス

またお盆は、いのちについて学ぶチャンスでもあります。ある本にこんなことが書いてありました。
お盆の夕暮れ、食卓にごちそうが並び、家族が揃ったところでおばあちゃんが声をかけました。
「さあ、〈いただきます〉をしましょう」
どこの家庭でも見られる光景です。すると東京から来たお孫さんの一人が言いました。
「おばあちゃん、どうしてご飯を食べる前に〈いただきます〉って言わなきゃなんないの?」
おばあちゃんは、ちょっとおどろいて問い返しました。
「おや、お前、小学校6年生にもなって、そんなこと知らないの?」
「だって、ボクんちじゃ、〈さあ食おう!食おう!〉って言って、みんな勝手に食べてるよ。」
このお孫さんの言葉にしばらくだまっていたおばあちゃん、やがて口を開いて孫に語りかけました。
「Nちゃん、お前は食べ物を食べずに大きくなったのかい?」
「そんなこと分かりきってるじゃないか!食べ物を食べなきゃ大きくなれないし、死んじゃうよ!」
「ではNちゃん、どんな食べ物を食べているの?」
「えっ、ボクの食べてる物、肉やお魚や野菜や果物だよ」
「肉は何の肉?」
「ウシやブタや、トリだって食べるよ」
「魚はどんな魚?」
「イワシやアジや、お寿司のときはマグロやイカやタコだって食べるよ」
「野菜は?」
「ホーレン草とか、それにあまり好きじゃないけどピーマンやニンジンだって食べるよ、それにレタスやタマネギも」
「ずいぶん食べているんだね。さて、お前が食べているものはみんな生きていたんだよね。牛の肉だって豚の肉だってお前の口に入る前は農場かどこかで、ちゃんと生きていたんだよね。イワシだってアジだって海を泳いていたんだよね。野菜だって畑で元気に生きていたんだよね。それなのに人間に食べられてしまうことになったんだ。かわいそうだと思わないかい?」
「だって、人間が生きていくためには仕方ないよ。食べなきゃ人間死んじゃう……」
「そこなんだよ。人間は肉や魚や野菜を食べなきゃ生きていけない。つまり、動物や魚や野菜のいのちをもらって生きているということだね!」
「えっ、動物や野菜のいのちをもらっているの?」
「そうだろう。そこに天ぷらがあるけど、イカ天、エビ天、シイタケ天、ニンジン天・・・みんな生きていたんだよ。イカさんのいのち、エビさんのいのち、シイタケさんのいのち、ニンジンさんのいのち、みんないのちがあったんだよ。そのいのちを、お前は今食べようとしているのよ。食べることはたくさんのいのちをいただくことなのよ。だから、お食事の前に〈いただきます〉と言ってからお食事をするのよ」
N君、少しの間考えていましたが、明るく言いました。
「ご飯の前の〈いただきます〉は〈いのちをいただきます〉なのか。おばあちゃん、よーく分かったよ。ボク、今日からちゃんと〈いただきます〉って言ってから食べることにするよ」
お盆は人間のいのちのみならず、生きとし生けるすべてのもののいのちについて学ぶチャンスでもあるのです。

お盆の由来

以上、いろいろとお盆のチャンスに学ぶべきことを申し上げましたが、この外にもまださまざまなことを私どもに教えてくれるチャンスがお盆なのです。
さて、この学んださまざまなことをどのように実践するか、ということが最も大切ですので、最後に最も正しいお盆の行事についてお話したいと思います。

昔、釈尊(しゃくそん=お釈迦様)の十大弟子のなかに目連尊者(もくれんそんじゃ)という、智慧(ちえ)第一の舎利弗(しゃりほつ)と並び称される、神通第一といわれたお弟子がいました。この目連尊者は幼い時母に死に別れたので、生きていた時に充分な親孝行ができなかったことを大変後悔し、亡き母がどうしているか様子を知りたくて、神通力をもって三千大千世界を見渡したところ、あろうことか母の青提女(しょうだいにょ)は生前、仏様への供養を惜しんだ罪によって死後、餓鬼界に堕ちて見るも無惨な姿で苦しんでいました。
目連尊者は、早速、神通力で食物を送って母を救おうとしましたが、どうしたことか、食物は火となって燃え上がり、それを消そうと注いだ水も、かえって油となってますます燃えさかり、火だるまになった母は悲鳴をあげて泣き叫ぶのでした。
自分の力ではどうすることもできないことを知った目連尊者は、急いで釈尊に助けを求めました。
釈尊は静かにこう言いました。
「目連よ、常々善(よ)いことをしていれば良い結果が報いられ、悪い種子をまけば悪い実がみのるのです。お前の母は自分の欲ばかりに目がくらみ、恵みということを知らなかった。だから死んだ後までも欲心にしばられて、そのように苦しまなければならないのです。これを因果応報と言います。今は、お前が一日も早く仏の正しい道を悟ることです。そうすればお前の母の浅ましい心もなおるであろう。
だが、さし当り、この7月15日に、百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)を供え、十万の聖僧を招いて供養しなさい。そうすれば、母を餓鬼界から救い出すことができるだろう」と。

この7月15日という日は「夏安居(げあんご)」と申します。
インドという国は日本のように春夏秋冬の季節に恵まれた国土世間ではなく、雨期・乾期・熱期と4ヶ月ずつ三期に季節が分かれていて、雨期に入ると来る日も来る日も毎日雨で、僧侶は托鉢行(たくはつぎょう)という外を遊行する修行ができません。
外へ出ると、雨に打たれて木から落ちた虫たちを踏んで歩くことにより殺生戒を冒(おか)すことになるので、この雨期4ヶ月は外出をつつしみ、舎屋(しゃおく)にこもって精神的修行、教学の研鑽につとめ、そして満願の日が7月15日で、その日僧たちは雨期安居の間の修行を反省し、その間に犯した罪を懺悔(さんげ)する。それを「自恣(じし)」と申しまして、自恣の僧たちが安居が解けて托鉢行へ出発する日、それが7月15日なのです。

すなわちこの日の聖僧を招いて千僧供養することによって、はじめて母を餓鬼一劫(がきいっこう)の苦から救うことができたのです。喜んだ目連尊者は「この大功徳を、自分一人に止(とど)まらず、未来世の人々にも伝えて、その人達の父母はもとより、七世の父母にも功徳善根を積ませてあげたい。」と仏様に願ったところ、釈尊は「それは私の思うところである」と、一座の大衆に対して、のちのちまでもこの仏事を怠(おこた)りなく行うことを勧められました。これが盂蘭盆(うらぼん)の起こりとなったのであります。

日蓮正宗のお盆こそが最高至善

さて、目連尊者が得意の神通力をもっても母を救うことができなかった理由(わけ)は、目連尊者が悟った阿羅漢(あらかん)とは小乗の悟りであり、最高の法華経には遠く及ばなかったからです。釈尊の教えに従ってようやく母親を餓鬼界の苦しみから救い出すことができたものの、それも自恣聖僧の積み上げてきた功徳(くどく=積功累徳/しゃっくるいとく)によって、わずかに餓鬼道一劫の苦を救ったに過ぎません。
日蓮大聖人が、
「目連が色心は父母の遺体なり。目連が色心、仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」(御書1376ページ)
と仰せの通り、真の成仏は目連尊者が、後に法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えた時に、はじめて自分自身が多摩羅跋栴檀香仏(たまらばせんだんこうぶつ)という仏になり、その功徳によって父母を成仏に導くことができたのです。

しかしながら、目連尊者の母を救うことができた文上の法華経も、今末法においては、まったく在世脱益(ざいせだっちゃく)の法に過ぎず、現在これに固執していては、先祖の成仏は望めないし、かえって目連尊者が母を苦しめたと同じ苦汁(くじゅう)を、先祖になめさせることになることを知らなくてはなりません。
つまり、末法における一切衆生救済の法とは、御本仏・日蓮大聖人の御当体たる、人法一箇(にんぽういっか)の御本尊以外になく、この御本尊に南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、はじめて境智冥合(きょうちみょうごう)して成仏の境界を得るのであり、その功徳によって先祖も成仏できるのであります。
日蓮正宗のお盆こそが、我が身も、そしてご先祖も、ともに成仏の境界を得る唯一の最高至善の法要であります。

7月15日は、自恣聖僧の積み重ねた功徳によって目連尊者の母・青提女が餓鬼道の苦しみから救われましたが、その時、同様に苦しんでいた多くの亡者たちも同時に救われたのであります。そこで救われた多くの亡者たちが手を打ち、足を踏んで喜んだのであります。これが現在行われている盆踊りの始まりであるといわれています。
いずれにせよ、末法万年の闇を救う御本尊のもとに、まず自分自身が仏になることが肝要であり、その功徳を先祖に回向することこそ、真実の盂蘭盆会であり、末法今時(こんじ)においては日蓮正宗こそ真実、正しい盂蘭盆会を行っていると言えるのです。
ご清聴ありがとうございました。

『盂蘭盆御書』に云(いわ)く
「悪の中の大悪は我が身に其(そ)の苦をう(受)くるのみならず、子と孫と末七代までもかゝり候(そうら)ひけるなり。善の中の大善も又かくのごとし。目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給う。上七代下七代、上無量生(かみむりょうしょう)下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。乃至(ないし)代々の子息・夫妻・所従・檀那(だんな)・無量の衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ。故に法華経の第三に云わく『願はくは此(こ)の功徳を以って普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』云云(うんぬん)」(御書1377ページ)
(平成17年7月15日 盂蘭盆会法要の法話に加除・修正)

〜大乗山 持経寺住職  丸岡雄道・著『持経寺布教叢書(四)お盆は学ぶチャンス』より
※禁無断複製転載

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